2012年5月26日 (土)

「陰陽説」について Part 3

 長いので、二つに分けました。
 
 
高度成長期の発展途上国の国々では、先進国の学問や科学技術や制度の導入に最適な「○×方式」の教育は、確かに最適なのかもしれないが、国家が、ある程度、物質的に豊かになってきたら、今度は、個人個人の個性や感性や創造性を尊重するような教育体制に改めないと、気がつくと、物質的には、経済大国なのだが、精神的には、ずっと不幸な貧乏国、というような状況になりやすいので、注意が必要である

 まだ、それほど高度な先進国になっていないような、経済成長期の国々では、とりあえずは、より進んだ先進国の真似をして、「追いつけ、追い越せ」、とばかりに、それほど本心からの幸福感はなくても、そうした、「これは、先進国でやっているので、とにかく、同じようにできるようにすればいいが、これはやっていないので、何もしなくてもいいだろう」、とばかりに、先進国の後追い方式の、いわゆる、○×方式の教育でもって、いくらでも高度成長してゆけるようなところがあるので、それゆえ、そうした時期には、「昨年より給料が増えた、もっといい生活ができる」、「昨年より、国も企業も、より成長した。ものすごく達成感を感じる」、などというように、言ってみれば、本当の本心からの幸福感なんて、感じなくても、それなりの充実感や満足感は、十分、感じられるようなところがあるのです。

 ところが、そうした高度成長期を過ぎて、そうした国々が、ある程度、経済的に豊かになってきたにも関わらず、いつまでも経っても、同じような教育方式をとっていると、どこかの段階から、「いくら物質的に豊かになっても、全然、幸福感なんて、感じられない」、とか、「数字や物が増えることだけでは、もう何の満足感も達成感も感じられない」、などということになって、物質的には、非常に豊かなのに、今一、幸福感の感じられないような、精神的な貧乏国になってしまうことがある、ということなのです。

 ですから、実は、こうした、「物質的には、豊かなんだけど、精神的には、貧乏」、というような、非常にアンバランスな状態を脱するためには、その国が、経済的に、ある程度、豊かになってきたら、より進んだ学問や技術を、何でも片っ端から暗記させては、試験で、○×をつけるような詰め込み教育は、少しずつ減らしてゆき、一人一人の人間の個性や感性を尊重したり、あるいは、一人一人の人間が、より創造的に自由に考えたり、行動してゆけるような、より一段高い創造的な教育に変化させてゆくことが、とても大切になってくるのですが、ところが、国によっては、それは、そうした、それ以前の教育体制に依存している、たくさんの人々の事業の衰退や失業と大きく関わっているようなことがあるので、いつまで経っても、そうした教育体制の改革や改善に取り組まない結果、気がつくと、「国は、豊かになって、もう数十年は経っているんだけど、いまだに、精神的には、何か満ち足りない」、というような、物質的には、経済大国、精神的には、いまだに未熟な貧乏国の状態になりやすい、というような、非常に不幸な状況に陥りやすいようなのです。
 
 続く・・・
 
 

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「陰陽説」について Part 2

②「陰」と「陽」や、「善」と「悪」、それから、「正解」と「間違い」というような形で、何でも二つに分類して、満足するような精神生活をしていると、いつの間にか、常に物事を、あまり明るく、幸福に、創造的に考えられないような、非常に機械的で、硬直化した、不幸な精神状態に陥る人々が、数多く増えてゆくような社会的傾向があるので、注意が必要である

 第二には、これは、もう少しややこしい物の見方になってくるのですが、実は、人間の考え方、というか、認識力には、非常に大きな欠陥があって、たいていの多くの人々というのは、実際の物事の様子(現場とも言いますが)を見なくても、何か言葉で、はっきりとした断定をされると、それだけで、何となく、それが、あたかも真実であるかのように、わりと単純に信じ込んでしまうような、妙な特性があるようなのです。

 それゆえ、こうした「陰陽説」のような、何でも二つの要素に分けて、考えてゆくような、わりと単純な「二元論」のような考え方を受け入れてしまうと、たいていの多くの人々は、その段階で、もう思考停止してしまい、全然、深く考えなくなってしまうようなところがあるので、その結果、非常に不思議なことに、なぜか、その後、もう一度、深く物事を調べ直して、冷静に考え直す、とか、いろいろと努力、工夫して、新たに、何かを創造してゆく、とか、あるいは、肉体的精神的に無理をせずに、自然体の態度で、幸福に生きてゆくようなこと自体を、何となく無意識のうちに避けるようになって、わりと機械的な硬直化した考え方であるとか、何でも物事を、ものすごく難しく考えて、無表情で、あまり深く考えない、感じないような精神状態に陥ってゆくことが、非常に多いようなのです。

 これは、現代の地球人は、まだ、ほとんど気付いていない指摘になると思われるのですが、実は、「善」と「悪」でも、あるいは、「陰」と「陽」でも、さらには、いわゆる、学校教育における「正解」と「間違い」でも、はっきり言って、ほとんど同じなのですが、人間というのは、物事を理解し、判断する際に、何でも、わりと極端な違いを持つような、「良いこと」と「悪いこと」、とか、「明るいこと」と「暗いこと」、とか、「合っていること」と「間違っていること」、などというような、対称的な二つの概念に、しっかりと分類する、とか、あるいは、そうした二つの対称的な概念の中から、より適切と思われるような一つを選び取る、というような思考訓練を、たくさんやらされていると、そのうち、「自分自身は、本心では、いったい、何を感じたり、思ったりしているのか」、とか、「自分が、本当は、何をやりたいのか、やりたくないのか」、というような人間的な感覚や判断力というのが、だんだん衰えてきてしまい、気がつくと、「常に悪いことは避けて、良いことを選んでいるつもりなのだが、いつも能面づらで、ほとんど幸福感というのは、感じたことがない」、とか、「常に、陰陽の調和を心掛けているつもりなのだが、気がつくと、いつも無感覚で、心からの至福というのは、ほとんど感じたことがない」、とか、「自分としては、常に、間違いを避けて、最も正しい正解を選んできたつもりなのだが、気がつくと、いつも画一的で、ワンパターンの考え方や行動ばかりになって、自分の幸福も、また、相手のことも、全然、考えないような、機械的な仕事ばかりするようになってしまっている」、などというように、いっけん、人間としては、非常に優秀で、それほど間違いも犯さないのだが、それでは、人間的に見て、「本当に幸福なのか」、というと、はっきり言うと、そうした人間的な幸福感というのは、ほとんど感じたことがない、というような、非常に不思議な、非人間的人間、というか、ある種の機械存在的人間にさせられてしまうようなところがあるのです(参考1参考2参考3)。
 
 続く・・・
 

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2012年5月25日 (金)

「陰陽説」について Part 1

 今回から、何回かに渡って、中国思想について、述べてみたいと思います。


 まず最初に、「陰陽」(いんよう)の思想について、述べたみたいと思うのですが、これは、 これは、この世の中にある万物を、すべて、「陽」、つまり、ポジティブな側面と、それから、「陰」、つまり、ネガティブな側面の二つに分けて、物事を理解しようとしたり、あるいは、それらのバランスをとることによる、調和や幸福を実現しようとするような考え方になります。

 これは、中国の宗教思想では、ほぼ中心の核であると言っても過言ではないような、非常に重要な概念であるのですが、ところが、これは、霊的宇宙的に見た場合には、本当は、かなり問題が多い、というか、もっとはっきり言うと、別に、何もしなければ、そのまま仲良く調和して、幸福に過ごせそうなものを、なんでもかんでも、対称的な二つに分けて、お互いに競わせたり、争わせたりするような、かなり危険な働きも持っていた、ということなのです。

 それでは、こうした陰陽説の、いったい、どこに問題があるのか、というと、大体、以下のような三つの内容になります。
 
 
1、「世界の万物は、すべて相反する二つの要素に分割される」、というような「陰陽説」と、現実の世の中の実態というのは、大きく違っていて、現実の世の中では、「いったい、何を基準にするか」、ということによって、陰にも、陽にもなりうるものが、たくさんあるし、また、なぜか、何でも物事を二分割して、考える人は、無感覚で、あまり深く考えないような、不幸な精神性を持ちやすい、という思想的大欠陥があるように見受けられる

 まず第一には、確かに、物事を見る時に、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、とか、「男」と「女」、とか、「白」と「黒」、などというように、対称的な二つの要素に分けて、いろいろと比較してみたり、あるいは、それらのバランスをとろうとしてゆくと、ある程度は、何でも、よく分かったような気分になってくるものなのですが、ところが、世の中の実態というものを見てゆくと、そうは、簡単に、何でもかんでも、対称的な二つの要素に分けられるものではないし、また、場合によっては、かえって、二つに分けると、いろいろと混乱や争いが起きたりして、なかなか不都合なものも、実際には、たくさんあるのではないか、ということなのです。

 それでは、いっけん、非常に説得力のある、こうした何でも二つの側面に分けてゆくような「陰陽説」の、いったい、どこに問題があるのか、というと、次のような、大きく二つのことが言えます。
 
 
①世の中の実態を見ると、そうは簡単に、何でも「陰」や「陽」などと、単純に二つに分けられるものではなく、「いったい、何を基準に分けるか」、ということによって、「陰」にも、「陽」にも、どちらにも分類されるようなものが、たくさんあるものである

 まず第一には、これは、今日の現代人が、普通に感じているような、「ゼロという存在は、本当は、存在していない」(参考)、ということを述べた時に言ったことと、基本的に、全く同じような物の見方になるのですが、要するに、現実の世の中というのは、そうは、簡単に、何でも二つに分けて、考えればいい、というほど、単純なものではない、ということです。

 例えば、「陽」と「陰」を表す代表的な要素である、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、という概念を例にとると、確かに、中国や日本の辺りの地域では、「昼は明るく、夜は暗い」、とか、「夏は暑く、冬は寒い」、というようなことは言えるのですが、それでは、そうした中国の人々が、最近、流行りの観光旅行で(らしいですね・・・)、赤道直下のインドネシアやインドやアフリカの辺りに行ったとすると、おそらく、「中国の昼は、明るいとは思ったが、やっぱり、赤道直下の国の真夏の太陽は、中国以上に、ものすごく明るい」、と言うでしょうし、また、その反対に、例えば、今度は、北極圏のロシアや北欧の国々に行ったとすると、おそらく、「中国の冬は寒いと思ったが、ロシアや北欧の冬に比べれば、まだ、全然、暖かいと思った」、などというように、はっきり言うと、「陽」と「陰」を表す、代表的な要素である、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、といった概念というのは、要は、いったい、何を基準にして、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、ということを決めるのか、ということによって、例えば、ある人が、単純に「明るい」と思えるものが、別のある人から見ると、全然、「暗い」と感じられる、とか、また、ある人が、「暗い」と感じるものが、別のある人から見ると、全然、「明るい」と感じられる、などというように、結構、その結果や感じ方が、全く異なることになってしまうものなのです。

 つまり、本当は、物事というのは、そう単純に、「陰」とか、「陽」などと、何でも二つに分類できるものではなくて、「ある基準から見たら、これは、陽、ポジティブに判断されるけれども、ある基準から見たら、これは、陰、ネガティブであると判断される」、とか、「だけど、別のある基準から見たら、これは、陰、ネガティブであると判断されるけれども、さらに別のある基準から見たら、これは、陽、ポジティブであると判断される」、などというように、要するに、人間の仕事や生活上の、いろいろな都合のために、その時々に必要な、一定の基準を定めた際に、そのある基準を上回っていたら、「陽」、とか、「上」、とか、「右」、とか、「良い」、とか、「危険」、などと判断する、とか、また、そのある基準を下回っていたら、「陰」、とか、「下」、とか、「左」、とか、「悪い」、とか、「安全」、などと判断しているだけで、本当は、いったい、どのような基準を定めるか、あるいは、変更するか、ということによって、どんなものであっても、「陽」とも、「陰」とも、どちらとも言えるようなところがあるのではないか、ということなのです。
 
※「陰陽説」というと、たいていの人は、すぐに、白と黒が、くるくると回っている、有名な「陰陽説」のシンボルを思い出す人が多いと思うのですが、これは、デザイナーの方は、よく知っていると思うのですが、同じ「白」と言っても、完全な白色なんてなくて、少し灰色がかった白、とか、光沢がかった白、とか、つや消しの白、とか、黄色や青色が、少し混ざった白、などというように、結構、たくさんの種類の白色があるし、また、同じ「黒」といっても、完全な黒色なんて、本当はなくて、薄い黒色、とか、少し茶色がかった黒、とか、光沢のある黒、とか、つや消しの黒、などというように、結構、たくさんの種類の黒色があるものなので、本当は、単純に、世の中は、白黒に分けられるものなのではなくて、「白の中にも、いろいろな白があるし、また、黒の中にも、いろいろな黒がある」、というのが、世の中の真実なのではないでしょうか(これは、光と闇についても、ほとんど同じようなことが言えます)。
 
 続く・・・
 

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2012年5月24日 (木)

今日は、お休みになります

 今日は、お休みになります。

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2012年5月23日 (水)

ギリシャ神話について Part 8

 
 第四には、これは、あまりはっきりとは言われないような話になるのではないか、と思うのですが、ギリシャ神話的な世界観では、人間だけでなく、神々や英雄や、お姫様まで含めて、あらゆる面で、人間性の開放や賛美が詠(うた)われているようなところがあるので、それゆえ、実は、ギリシャ神話を読むと、中世キリスト教会において、あれほど厳しかった性道徳が、すぐに、どこかに吹き飛んでしまい、神々しい神々や英雄や、きれいな女神や、お姫様であっても、裸体の表現なんて、全く当たり前、とか、セックスの話も、わりと当たり前のようなところがあるので、これも、当時のヨーロッパの人々には、かなり新鮮に感じられたのではないか、ということです。

 それから、第五には、これは、あまり聞いたことのない話になるのではないか、と思われるのですが、実は、ギリシャ神話を読むと、それまでのユダヤ教やキリスト教では、わりとスタンダードだった神の概念、つまり、神というのは、たった一人で、常に絶対に正しくて、何の失敗も間違いも犯さない、というような神様観というのが、みごとに崩れてしまい、「たとえ、偉い神様であっても、そこには、もっと威張っている奥さん女神がいる」とか、「たとえ、偉い神様であっても、不倫や争いもあれば、時には、失敗や間違いも、それから、場合によっては、死すらある」、などというように、当時のヨーロッパや中東において、スタンダードだった一神教の概念が、全く、みごとに覆されてしまっているようなところがあるのです。

 ですから、そうした、「たとえ、偉い神様、女神様であっても、人間的な欲望や葛藤はあるし、また、時には、間違いや失敗をすることすらある」、というような神の概念というのが、当時の人々に、非常に安心感、というか、取っ付きやすさを与えたのではないか、ということです。

 そして、第六には、これも、あまり聞かない話になるのではないか、と思うのですが、実は、ギリシャ神話には、現代の世界三大宗教の仏教やキリスト教やイスラム教であれば、「これをやったら、絶対、神仏とは言わないよな〜」、というようなことでも、わりと平気で、いくらでも、やってのけるような要素があるので、おそらく、それが、ギリシャ神話を受け入れた国々に、後々、大きな政治的成功や、経済的繁栄をもたらすようになっていったのではないか、ということなのです。

 その要素は、大きく三つあるのですが、まず第一には、これは、ギリシャ神話の非常に大きな特徴であるのですが、とにもかくにも、人間的な欲望や幸福というものを、徹底的に肯定している、ということです。

 第二には、これも、ギリシャ神話の非常に大きな特徴になるのですが、とにかく、ギリシャ神話の神々や英雄というのは、絶対的な正しさを求めるようなことはせずに、とにかく、ある程度、結果さえ、うまく行くのであれば、その場の機転や勢いで、嘘や詭弁も言えば、戦いや略奪も、平気でやってのけるようなところがあるので、おそらく、そうした古代ギリシャ的な精神の影響が、その後のヨーロッパの、今日的に言うと、「正義なんて、どうでもいいから、行け行け、ゴーゴー!」的な発展や拡大を後押しすることになったのではないか、ということです。

 それから、第三には、これは、あまり聞いたことがないのではないか、と思うのですが、実は、ギリシャ神話的な世界観を受け入れると、それまで長いこと、人類が封印されていた、「経済的な繁栄を、大いに良しとする」、とか、「どんどん、がっぽり、お金儲けしたって、それと一緒に、良いことを、いっぱいしてゆけばいいじゃないか」、というような、悪い意味では、拝金主義、良い意味では、経済的繁栄主義のような人生観や世界観を、わりと自然と受け入れてゆけるようなところがあった、ということなのです。

 その理由は、極めて不思議な話なのですが、実は、闇の勢力が、かなり一生懸命、封印しようとしていた、この宇宙の創造主の、代表的な繁栄の神の一個性である、ある神の封印が、ギリシャ神話を受け入れるだけで、誰でも簡単に解けてしまい、その霊的なパワーを十分に受けることができたからであったのですが、その神の名前が、「ヘルメス」であったのです。
 
※このブログの他のところを読まれると、よく分かると思うのですが、当然のことですが、これは、この世的な犯罪や、過去の植民地政策等を、何でも肯定するような意味ではありません。ただ、霊的、というか、精神的には、そうした効果があったのではないか、ということです。
 
 続く・・・
 
 
 追伸

 こういう終わり方をすると、続きが、とても気になると思うのですが、実は、電子書籍の件で忙しくて、まだ、この続きは、全く書けていないので、続きは、多分、少し後になります。
 
 


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2012年5月22日 (火)

『アセンション 上』電子書籍発売のお知らせ!

アセンション 上

 突然ですが、このたび、「アセンション・シリーズ」の一部を、電子書籍の形で、発売することにしました。

 霊的に敏感な方は、私が、いつもと少し違う感じで、何か、とても忙しくしていることが分かったかもしれないのですが、このたび、このブログの中の、たくさんある文章の中から、「アセンション・シリーズ」の一部を、「アセンション 宇宙から見た地球の時空間の真実と、まもなく巻き起こる時間的世界の終焉 上」というタイトルで、上下巻に分けて、DL-MARKETから、発売することにしました(下巻は、6月発売予定です)。

 タイトルは、このブログの大きな特徴である、どの文章にも、たいてい、とても長〜いタイトルがついているところを、そのまま継承して、「アセンション 宇宙から見た地球の時空間の真実と、まもなく巻き起こる時間的世界の終焉 上」というタイトルにしたのですが(このブログは、時間がない時は、タイトルを見るだけで、ザッと意味が分かりますよね・・・)、これは、長過ぎるので、とりあえず、「アセンション 上」となっております。

 なぜ、この「アセンション・シリーズ」からにしたかというと、みなさんから、送っていただいたブログの感想を読むと、どうも、このシリーズについての感想が、とても多かったからなのですが、それと、もう一つの理由は、スピリチュアルなことから、宇宙文明や並行世界まで、非常にたくさんの内容を扱っているので、現在の地球の置かれた、霊的宇宙的な状況を知るには、非常に興味深く、分かりやすい入門書のような役割を担えるのではないか、と思ったからです(そのわりには、かなり重い内容もふくまれていますが・・・)。

 内容は、一冊の書物として、読みやすいように、多少、文章を直してあります。

 表紙は、このブログのデザインと同じように、今回の電子書籍のために、特別に作りましたが、イメージを優先したので、文字は、多少、読みづらいような気がしますが、ただ、見ていて、楽しいのがいいと思ったので、「アセンション」的なイメージの、できるだけ、きれいで、澄んだ雰囲気のものをデザインしました。

 というわけで、とりあえず、電子書籍の形にまとめて、発売することにしたのですが、現在では、ブログは、かなり慣れてきたのですが、まだ私も、電子書籍の方は、不慣れなところがあるので、もし読んでみて、使いづらいところがあったら、ご連絡ください。

 それから、うまくやると、立ち読みもできるようなのですが、まだ、私自身が、やり方をよく分かっていません・・・。

 ということで、もし、このブログの内容を、もう少しきっちりとした形で、電子書籍の形で、読んでみたい、という方がおられたら、ぜひとも、DL-MARKETにて、発売中の「アセンション 上」を、ご覧ください(ただ、とりあえず、もっと、どんなことが書いてあるか知りたい、という方は、こちらのブログの文章をお読みください・・・)。

 Cecye
 

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2012年5月21日 (月)

ギリシャ神話について Part 7

4、長い中世が終わり、多くの人々が、新たな自由と繁栄を求め始めたルネッサンス期のヨーロッパにおいて、再び、脚光を浴び始めたギリシャ神話は、それまで長い間、封印され続けていた、古代ヨーロッパの自由や陽気さや繁栄の精神を、ヨーロッパから、アメリカ、そして、世界中に広めるための、全く新たな役割を持つようになった

 第四には、今度は、全く話が変わって、それでは、現在、伝わっているギリシャ神話は、いったい、どのような点で、多くの人々にとって、非常に人気があるのか、ということについて、考えてみたいのですが、これは、西洋東洋問わず、どの人も、あまりはっきりとは、口で表現しないことが多いのですが、私が推定するに、おそらく、現在、伝わっているギリシャ神話の人気の要因というのは、次のような六つの理由なのではないか、と思われます。

 まず第一には、長い中世が終わり、ルネッサンスの辺りの時代から、ヨーロッパ全土で、再び、ギリシャ神話が、多くの人々に受け入れられるようになっていったのですが、その際、多くの人々が、ギリシャ神話の、いったい、何に惹かれたのか、というと、それは、おそらく、どう考えてみても、ギリシャ神話の登場人物である神々や英雄達が、中世のキリスト教の感覚と比べて、あまりに非常に大らかで、人間的な欲望や失敗が、そのまま、ありのまま描き出されている上に、その上、人間的な本音が、そのままストレートに表現されていたからではないか、ということです。

 つまり、イエスや、彼の弟子なら、そこで、それ以上は、絶対に踏みとどまって、やらないようなことを、ギリシャ神話の神々や英雄は、平気で乗り越えて、身勝手に、自由気ままに行動するようなことをしてしまう、とか、そこで、イエスや、彼の弟子なら、絶対に我慢して、耐え忍んだようなところを、ギリシャ神話の神々や英雄は、機転に富んだ知恵や、勇敢な行動で、うまく解決してしまったり、あるいは、わりと平気で、次から次へと、いろいろな色恋や、自分の関心事にのめり込んでいってしまう、というようなところに、非常に大きな人間的な開放感と魅力を感じたのではないか、ということです。

 第二には、これは、ギリシャ神話の代名詞みたいな話になってしまうのですが、中世キリスト教会で、あれほど厳しく性道徳を締め上げていたのに、それが、ギリシャ神話の神々や英雄達となると、あっちも、こっちも、本当に無数の色恋だらけになっていたり、あるいは、男の欲望や、女の嫉妬が、まるで当たり前のように、次から次へと、平気で描かれているので、おそらく、こうしたところが、現代人の感覚で言うと、当時のヨーロッパ人としては、いわゆる、全く新しい形の恋愛物の小説やマンガや映画のように感じられたのではないのか、ということです。

 それから、第三には、これは、ちょっと変わった話になるのですが、実は、ギリシャ神話には、特に、これといった、神の掟や厳しい決まりのようなものが見当たらないので、おそらく、その点で、中世の厳しい戒律や法律だらけだった、当時のヨーロッパの人々の感覚からすると、かなりの自由や開放感が感じられたのではないのか、ということです。
 
 続く・・・
 

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2012年5月19日 (土)

ギリシャ神話について Part 6

⑤非常に長くて、ごちゃごちゃした神話や歴史を、丸暗記のように学ばされてしまうと、いっけん、何でも知っていて、頭は良さそうなのだが、結局、理性や合理性や判断力の面で問題の多い、先延ばし型の頭の悪い人になってしまうことがあるので、注意が必要である

 第五には、これは、専門家のような人々から、あまり指摘されないにも関わらず、多くの人々の本音としては、いつも感じていた内容なのではないか、と思われる話になるのですが、ギリシャ神話のように、非常に長くて、ごちゃごちゃとした神話の場合(日本の神話の方が、もっと遥かに、ごちゃごちゃした印象を受けますが・・・)、現代人が、よく知っているような、学校教育的な歴史の感覚とは、かなり大きく違って、「結局、いつ頃、何が起きて、その結果、いったい、どうなったのか」、とか、「ある出来事と、別のある出来事との間には、いったい、どのような因果関係があるのか」、とか、それから、「ある出来事と、別のある出来事の間には、いったい、どれくらいの期間の差があったのか」、とか、さらには、「ある人物の判断の結果、いったい、どのようなことが起きたのか」、とか、「もし、別の判断をした場合には、いったい、どのようなことが起きえたのか」、などというようなことが、何が何だか、よく分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。

 つまり、本来、歴史を学ぶというのは、単に意味不明の膨大な知識を丸暗記することなのではなくて、そうした歴史の中から、何らかの教訓を学んで、個人、あるいは、集団として、現在、及び、未来において、少しでも大きな失敗を避けつつ、できるだけ、より良い未来を選びとるための知恵を得てゆくことが、非常に重要なのではないか、というように、私は思うのですが、ところが、こうしたギリシャ神話的な歴史観を持つと、ごちゃごちゃとした、非常に長い期間の話が、どっと頭の中に流れ込んできてしまうことになるので、その結果、そうした歴史に対する理性的な理解であるとか、分析的な解釈というのが、だんだん、何が何だか、よく分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。

 つまり、ギリシャ神話(日本の神話に関しても、ほとんど同じようなことが言えますが)のような、ごちゃごちゃとした、非常に長い神話や歴史を学ぶと、結局、多くの人々は、本来、歴史から学ぶべき歴史の教訓のようなものが、逆に、すっかり分からなくなってしまい、「いついつ、誰それが、何々をした」、というようなことまでは、いちおう、ある程度は、覚えているけれども、それでは、そうした歴史的な教訓に基づいた場合、現在の政治家や一般市民としては、「いったい、何を、どうすると失敗につながるのか」、とか、また、「いったい、何を、どうすると、成功につながるのか」、というようなことは、結局、全然、分からない、とか、偉い神様や、偉い人物の名前や業績は、いちおう、知っているけれども、それでは、「その人は、いったい、何を理想にして、何を、どうやって、実現できた点が、偉いと言われているのか」、とか、また、「いったい、どのような点において、何を失敗したと言われているのか」、というようなことに関しては、結局、あまり分かっていない、というような状況になってしまいがちであったのではないか、ということなのです。

 ですから、もっと簡単に言うと、多くの人々の単純な思い込みとは違って、ごちゃごちゃとした、非常に長い神話や歴史を学ぶと、理性的に、パッパッと、最も合理的な判断ができるような、頭の良い人ができるのではなく、その反対に、いつも難しそうな顔をしては、あれもこれも一緒くたに考えてしまい、なかなか、理性的、合理的な判断ができずに、何でも先延ばしにして、判断や行動自体を、いつまでも回避し続けてゆくような、優柔不断の頭の悪い人になってしまうことがある、つまり、もっとはっきり言うと、いっけん、いろいろな知識や情報は知っていて、頭は良さそうなのだが、責任感や判断力の面で、かなり問題の多い、先延ばし型の頭の悪い人になってしまう可能性がある、という点で、非常に注意が必要である、ということなのです(参考1参考2)。


 このように、ギリシャ神話のように、非常に長くて、ごちゃごちゃした神話を、多くの人々が、まるで本当の真実であったかのように受け入れてしまうと(もちろん、歴史的に事実であったことに関しては、別なのですが・・・)、その後、そうした霊的、知的な混乱が、地上の世界のあちこちで、さまざまな悪影響を及ぼす可能性があるので、非常に注意が必要なところもあるのです。
 
 続く・・・
 

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2012年5月18日 (金)

ギリシャ神話について Part 5

④話の長いわりに、これといった一貫性や、つながりの欠如した、いろいろ盛り沢山の内容の神話が伝わるような国や地域では、非常に長い混乱状態に陥ったり、その神話の主なモチーフ通りの歴史が、何度も繰り返すような傾向があるので、注意が必要である

 第四には、これも問題が多いのですが、ギリシャ神話のように、とにかく、話が長いわりに、特に、これといった一貫性や、つながりのない、いろいろ盛り沢山の内容がある場合には、結局、多くの人々は、知れば知るほど、「この神話では、自分達に、いったい、何を伝えようとしているのか」、とか、あるいは、「自分達は、いったい、何をすべきで、何をするべきでないのか」、とか、「何が良いことで、何が悪いことなのか」、というようなことが、だんだん、何が何だか、よく分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。

 そうすると、こうした状況において、多くの人々は、いったい、どのような精神性、というか、行動原則を持つようになるのか、というと、大体、次のような三つのことが言えます。

 まず第一には、こうした神話の状況であると、「この神話には、こう書いてあるが、この神話には、こうも書いてある」、などというように、結局、その場その場で、自分にとって、一番、都合のいい選択と判断を繰り返すようになるので、それが良い方に働くと、多くの人々が、最大の自由と繁栄を謳歌(おうか)できるような、非常に良い社会になるはずなのですが、今度は、それが悪い方に働くと、あっちもこっちも身勝手で無責任な人だらけになって、社会全体として、かなり長い停滞状態に陥ることがある、ということです。

 第二には、これは、はっきり言うと、今日的な感覚としては、ほぼ「反宗教」と言ってもよいような話になるのですが、結局、こうした神話に接していると、だんだん、多くの人々は、「まあ、その場の状況や勢いで、盗みや姦淫(かんいん)もOKだし、それから、場合によっては、人殺しや腹黒い陰謀もありかな・・・」、などというようなことになって、これが、良い方に働くと(現代的には、あまり良いとは言えないのですが、一般に古代ギリシャ文明の、まるで良い面のように言われているようなので・・・)、辺り一面の海岸という海岸で、全部、交易を広げるばかりか、場合によっては、海賊まがいの侵略や略奪も、どんどんやってしまおう、というような海外覇権主義の小都市連合みたいになってくるのですが、これが、悪い方に働くと、いつどこに人殺しや泥棒がいるか、全く油断できないような、一種の無政府状態のような社会になってゆきがちなので、その結果、非常に長い、底なしの長期混乱状態に陥ってしまうことがある、ということです。

 それから、第三には、これは、あまり聞かない話なのではないか、と思われるのですが、こうした長い神話体系を持つ国において(歴史の長い国では、歴史教育が、これと、ほぼ同じような効果をもたらすことになりますが)(参考)、そうした神話というのは、これは、言ってみれば、昔版の一種の「国家教」、というか、「民族教」のような役割を果たしていたはずなので、その結果、霊的には、多くの人々が、そうした一種の目に見えない「国家」や「民族」という枠組みの中に、しっかり飲み込まれ、組み込まれてゆくことになってしまう、ということなのです。

 その結果は、極めて、おかしな結論になるのですが、その神話の主なモチーフの通りの歴史が、なぜか不思議なことに、そうした国や民族では、まるで決まりきった歴史の法則でもあるかのごとく、何度も何度も、繰り返すようになってゆくのです。

 その代表的な例としては、例えば、ギリシャ神話だと、世界全体の大変な混乱や試練の後の、神々や英雄の登場と、その悲劇的な末路の話であるとか、それから、日本の神話だと、化け物や怨霊の跋扈(ばっこ)による国全体の争乱や混乱と、その後の、全く新たな国家秩序の再編と、それでも全く収まってゆかない、その後の国家の混乱や低迷であるとか、それから、中国の辺りの神話だと、ものすごく偉い聖人君子のような皇帝の登場による大国家(帝国)の建設から、国家(帝国)の繁栄と、その後の国家の混乱や斜陽化と、さらに、その後の易姓(えきせい)革命による、新国家の再編成、などという具合に、その国に伝わっている主な神話のモチーフというのは、なぜか、多くの人々に対して、ある種の「国家教」や「民族教」のような働きをして(多くの人々の潜在意識に対して、非常に大きな影響を与える、ということです)、その国の雰囲気や歴史の流れを、大きく左右してゆくようなところがあったのです。

 このように、話が長いわりに、これといった一貫性や、つながりのない、いろいろ盛り沢山の内容の神話を持つ国や地域では、非常に長い混乱状態に陥ったり、あるいは、その国や地域で伝わる神話の主なモチーフ通りの歴史が、まるで決まりきった歴史の法則でもあるかのように、何度も何度も繰り返すようなことがあるので、注意が必要である、ということです。
 
 続く・・・

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2012年5月17日 (木)

ギリシャ神話について Part 4

③ギリシャ神話の最大の魅力は、数々の個性豊かな神々の織りなす人間的なドラマと、愛と勇気のアドベンチャーと、恋愛やセックスにちなんだゴシップの部分だと思われるのだが、現代的な判断としては、おそらく、これだと、悲喜こもごものエンターテイメントとしては、最高の部類に入るのだろうが、人間的な幸福や成長の観点から見ると、ほぼゼロ点に近いのではないか

 第三には、これは、考えてみれば、全く当たり前の話になるのですが、結局、ギリシャ神話というのは、歴史上の事実を元にした一部の部分は除くにしても、それ以外のほぼ大部分は、本当の実話というよりかは、数々の個性豊かな神々や女神達の織りなす人間的なドラマや、そうした神々や英雄をモチーフにした、愛と勇気溢れるSFアドベンチャーや、それから、そうした神々や女神達をネタにした、言ってみれば、最高のゴシップの集大成のようなものだったのではないか、ということです。

 特に、ギリシャ神話の場合は、世界の他の国々の神話とは、かなり違って、「ものすごく立派な神がいる」、というような話は、皆無で、そうではなく、「偉い神かと思ったら、結局、とんでもない殺され方で死んでしまった」、とか、「すごい神かと思ったけど、嫉妬深い妻に隠れて、あっちの女、こっちの女と手を出すうちに、結局、とんでもない失敗をして、大変な目に遭ったらしい」、とか、「神々の間ですら、嘘や嫉妬や陰謀は数多しなので、それが、地上の人々にも、多大な影響を与えて、結局、次々と、地上の世界で、戦争や混乱が巻き起こることになってしまった」、などというような話が、あちこちに見られるのですが、はっきり言って、これらの話は、今日的な感覚で言うと、多くの人々が、映画やテレビのようなエンターテイメントや、あるいは、王室や芸能関係のゴシップに強い関心を示すのと、さして違いのないようなレベルの話が多いのではないか、ということなのです。

 さらに、それよりも問題なのは、こうした神話の形態になっていると、多くの人々が、「結局、最高の神であるゼウスは、いったい、何を望み、何を伝えようとしているのか」、というのが、よく分からなくなってくると共に、「神々が、あの程度なら、人間は、まあ本能のままに、好き勝手にやればいいか」、とか、「別に間違いや失敗があるのは、当たり前だから、毎日、その日暮らしで、適当に生活すればいいか」、などというような感覚を、まるで当たり前のように持つようになってしまいがちだったのではないか、ということなのです。

 ですから、こうした点で、ギリシャ神話というのは、神々をテーマにしたエンターテイメントとしては、おそらく、最高の部類に入るものだったのではないか、と思われるのですが、ただ、元々、多くの人々が、宗教に求めていた、人間的な幸福や成長の観点から見ると、はっきり言って、ほぼゼロ点に近かったのではないか、ということなのです。
 
 続く・・・
 

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